「私に教えて、和仁さん」

 花梨はそう言って和仁の隣に座る。華奢で頼りなげな白い手首と足首に、会うたび和仁が釘づけになっているのを彼女は知らないだろう。伏せた長い睫が顔の上に影をつくっていることも、持参した枝葉や木の実を並べる指の爪が綺麗なことも、静かに喋る声が可愛らしくて優しげなことも、彼女にはきっと自覚すらない。
 普通の男性なら、それらを褒めるだろう。少しでも距離を縮めるために、美しさを巧みな言葉や歌で称賛する。だが和仁に、それはできない。そんなことをする資格など自分にはないと思っていたから。

「ねえ、これは何ですか?」

 小さな庭が見渡せる邸の、縁側に並べた数個の木の実を指差し、花梨は無邪気に尋ねた。そばであぐらをかいている和仁は彼女が示した赤い実を見下ろし、それは"ぐみの実"であると答えた。

「ぐみ……名前は聞いたことがある。食べられるんですか?」

 問われ、和仁はそんなことも知らないのかと呆れながら頷いた。

「ああ、熟せば」
「甘い?」
「そうだな。だが渋みもある」

 では持ってきたこれは熟しているのかと訊かれたので、和仁は食べてみればいいと促した。花梨は少し悩んでいる様子で手元にある、ぐみの実を指先で選別し(彼女がどういった基準で選別しているのかは知る由もない)、その中でもふっくらと赤くつるんとしている一つを手に取ると、躊躇いがちに口の中に放り込んだ。
 何回か噛むと、小さな呻き声を上げて、花梨は顔をしかめた。

「すっぱいし……えぐい」
「ふむ」

 残されているうち一つの実を取り上げて、その表面を人差し指と親指で軽く押す。跳ねかえるような弾力はなく、ただ固いだけだ。

「これは、まだ熟しておらぬ」
「そうなんですか……」

 飲み込みづらかったようで、和仁に背中を向け、懐紙を取り出して吐き出している。試しに他の実も指で押してみたが、どれも熟すまでいっていないようだ。舌に変な感じが残ったと嘆いている少女を気の毒に思いつつ、和仁は苦笑した。

「残念だったな」
「もう少し、時期が後になれば、美味しく食べられるのかしら。時朝さんと一緒に散歩しに行った山になっていたんです」

 日々罪悪感に苛まれる少年を心配し、花梨は毎日和仁のもとを訪れた。やめてくれと懇願していたが、主の身体をひどく心配している時朝は、どうやら花梨の訪問を喜んでいるらしく、しまいには和仁の住む邸に花梨が泊まるための場所さえ作ってしまい、和仁も徐々に何も言えなくなってしまった。さすがに星の一族の者たちから泊まりがけはやめてくれと言われているようで、実際に朝まで過ごすことはないのだが、これではまるで夫婦のようであると後ろめたさを感じていた。自分は平穏を故意に脅かした罪人だ、誰かの側にいることも許されない存在だというのに、どうして少女は血の繋がりすらない少年を励まそうとするのだろう。疑問だったが、それを花梨に再三訊くことはためらわれた。問うたびに、花梨がひどく悲しそうな顔をするのが堪えるのだ。

「和仁さんは、熟したぐみの実の味を知ってる?」

 首を傾げて問うてくる。さりげない仕草を可愛らしいと思いつつも、口には出さず、頷いた。

「子どもの頃に、皆食うさ」
「私も食べたいです。和仁さん、熟したものを見分けられる?」
「ああ……」

 言葉の中に、和仁を外に連れ出そうという意図が感じ取れ、戸惑う。体力の衰えもそうだが、人目を気にして外出できないことを、直接的に言いはしないが花梨はよく思っていないらしかった。少女の訪問によって食欲は徐々に取り戻しつつあるものの、人通りを歩く気にはならない。静かな庭で植物と戯れ、誰のためでもない歌を考えていた方が、気が楽だった。
 相手の困惑を酌み取ったらしい花梨は、和仁を見つめて沈黙したのち、並べたぐみの実を取り上げて、持参した小さな紫の巾着に入れ始めた。うつむいたまま、ぽつりぽつりと言葉をこぼす。

「だって和仁さん、物知りなんですもの……野山にはたくさんの植物があるから、あれはなにって、和仁さんに訊きたいときがたくさんあるの。花や、草や、木の実の名前。それに、時朝さんに教えてもらった景色の綺麗な場所があって……」

 横から差し込む陽光が、花梨の伏せた睫毛の整然とした影を落としている。それは幼げで、どこか神々しく、和仁はいつも見入ってしまう。花梨の目が好きだったのだ。大きくてこぼれ落ちそうで、その二つの瞳が生み出す視線が真っ直ぐで。

「時朝さんも、一緒に見に行きたいって、心の中で思っているに違いないわ……」

 その姿はあまりに無垢で、和仁は、だからこそつらかった。

「神子」

 呼びかけに、睫毛をぱっと上げて、花梨は目の前にいる少年を見つめた。やはり予想したとおりの誠実な視線が、和仁を捉える。
 和仁は彼女を見つめ返し、無表情で告げた。

「もう、来なくてもよい」

 花梨は少しのあいだ微動だにせずにいたが、次第に伏目になり、悲しげに肩を落とした。

「和仁さん……」
「私と関わるな。お前の評判に傷がつく」

 放つ言葉は真実であるがゆえに冷静で、和仁に迷いはなかったが、花梨の悲痛な表情を見るのはやはり心苦しくなると、胸中で思っていた。しかし突き放さなければ彼女はいつまでも和仁に寄り添おうとする。傷つけなければ彼女の心はいつまでも和仁に向けられたままになる。罪を償うことすらままならない罪人と接触し続けることは、決して花梨のためにはならないのだ。

「私はもう、これ以上、己の罪を増やしたくはない」
「私が、和仁さんに寄り添うのは……」

 半ば和仁の言葉を遮るようなかたちで言い、花梨はうなだれた。

「和仁さんに似ているからなんです」

 その小さな呟きの意味がよく分からず、首を傾ける。

「似ている? 私とお前がか?」
「ええ……」

 微かな相槌を打ち、花梨は空を見上げた。どこともない場所を眺めやるその横顔は、白く、華奢で、陽を浴びたその姿は、まるで神秘的なものを待ち望んでいるかのようにも見えて、和仁の胸は不安を覚えてざわついた。今にも彼女が光に溶けて空へ消えていってしまいそうで、思わず自分の右手が動き、しかしハッとして引っ込めた。引き止める資格など、自分にはない。
 花梨はふと目線を和仁に戻すと、よく分からない微笑を浮かべた。

「私にも、居場所がないんです」

 居場所? 星の一族もお前を大切に思っているし、あるではないか――言いかけて、口をつぐんだ。彼女は急に京に現れた出所が不明な人物だと聞いている。もしかしたら、何か大変な事情があってこの場所にいるのかもしれない。
 以前の自分なら、そんな不審人物など追い出してしまえと喚き散らしていただろう――密かに自嘲し、和仁は曖昧に応えた。

「そうか。よく分からぬが……」
「和仁さんは罪人じゃないわ」

 声は小さかったが、はっきりと放たれた言葉に、眉を寄せる。罪への自覚がある今、そういった擁護は自分がみじめになるだけだった。だが、彼女が何を根拠として言ったのか興味を抱き、和仁は言い返さず黙っていた。

「そんなに自分を責め続けなければいけないほど、あなたは悪いことはしていないと私は思うんです。和仁さんは、ただ、周りの人の事情に巻き込まれてしまっただけ。それは、ここに来た私も同じ……」
「お前はどこから来たのだ?」

 とっさに尋ねると、花梨は目を伏せた。相変わらず長い彼女の睫に、和仁の視線が注がれる。

「私は……」

 それきり、花梨は言葉を継がなかった。そのうち時朝が現れて、茶を淹れるかと尋ねてきたのをきっかけに、花梨は手伝うと言って和仁の前から消えた。
 和仁は溜息をつきながら、花梨が取りこぼしたらしい床に残っていたぐみの実を見つけると、それを指先でつまんだ。彼女が持ってきたもの中では小ぶりで、赤く、固い。きっと彼女の衣の袂の影に隠れていたのだろう。口に放り込んで噛むと、強い酸味が口いっぱいに広がった。吐き出したかったが、なぜか和仁は無理矢理に呑み込んだ。

「熟すのは、もう少し後だ……」